「正しい弓の道には目的も意図もありませんぞ! あなたがあくまで執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを習得しようとすればするほど、ますます放れに成功せず、いよいよ中(あた)りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意思を持っていることが、あなたの邪魔になっているのです。あなたは、意思の行なわないものは何も起こらないと考えていられるのですね」
ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが大正時代に来日し、日本文化の神髄を学ぶために、弓術の大家である阿波研造から指導を受けた際の様子が彼の著書『弓と禅』に細かく描かれています。見ようによってはきちんと描かれた『カラテ・キッド』の修行物語のように、具体的な技のコツなどを意識的・体系的に教えてもらえないことの西欧人の焦燥が分かります。
弓を引き絞ることを練習した後に、矢を放つ練習に入ったのですが、この段階を師は「放れ」と呼び、矢が勝手に手元から放れるようになるのだと言っています。的を射る「意思」が矢を放つのではなく、矢が自分の意思のコントロールの外で、勝手に放れるということです。
ヘリゲルが「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし“私が”しなければ」と師に尋ねると、師は「“それ”が射る」と答えました。
「それ」は、自分の意識以外のものですが、物理的に誰かや何かが弓を放つ訳ではありません。つまり、意識によるコントロールを離れて、無意識が矢を放つようになるということを指しています。意識は無意識に比べて極端に処理能力において劣っています。訓練によって蓄えられた複雑な処理を意識に邪魔されることなく無意識が確実に遂行しているのです。
これは現在の言葉で言う、ゾーン(/フロー)の考え方そのものです。そして、それは意識に拠るコントロールを排除した変性意識状態でもあるのです。
☆参考書籍:『弓と禅』
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