最後の忍者、藤田西湖の催眠術への傾倒

藤田西湖は甲賀流忍術14代目にして最後の忍術伝承者です。日露戦争以前の1900年に生まれ陸軍中野学校において忍術などを教えていました。彼は5歳の時と13歳の時に数ヶ月間の山伏の修行を経て、千里眼に目覚めて世間を騒がせました。

当時の有名な催眠術師である浜口熊嶽も幼少時に山伏の修行をしていることと共通点が見つかります。その修行プロセスには自己催眠の技術がふんだんに取り入れられています。催眠の結果として千里眼(透視力)の能力が得られたのも、まさに福来友吉博士の実験対象だった二人の千里眼の女性と同じです。

明治末期の催眠術が再度ブームになっていた時期に10代だった藤田西湖は催眠術についても書籍を多読するなどしています。そして後に忍術の根本原理の一つを「我が心の作用」=「自分の心身と気力とを以て相手方を制する」こととしています。そして「忍術には、是が基本を為して居る。一部の人は忍術を一種の催眠術である如く考えるのも、全くこの精神作業である」と言っています。

各種の武芸にも通じていた藤田西湖は当然その習得の中に自己催眠の要素を見出していたと考えられます。また、彼は蒋介石の暗殺の密命を受けるほどに帝国陸軍に深い関与をしていますが、その陸軍の内部では広く催眠術が学ばれていたことは、1908年(明治41年)に複数の将校が民間の子供を相手に催眠術を練習しようとして濫用した事件などからも確認できます。

催眠術師としてより忍者として知られる藤田西湖ですが、その足跡のあちこちに催眠術との関係性が色濃く残っているのです。