忘れることで得られる“しあわせ”

催眠技術を学べば学ぶほど、人間の思考や感情、物事に対する好悪などがとてもいい加減に感じられてきます。好きや嫌いの感情さえ書き換えることができるからです。そのように感じる一方で、最近、よくいただくのは、(具体的なご要望内容は様々な表現の形になっていますが、)大まかにいうと「しあわせが足りない」という主旨です。

有名な経済思想家のジョン・スチュワート・ミルは

「自分自身の幸福ではない何かほかの目的に精神を集中させる者のみが幸福なのだ、と私は考えた。例えば、他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、それを手段としてではなくそれ自体を理想の目的として取り上げるのだ。このように何かほかのものを目標としているうちに、副産物的に幸福が得られるのだ」。

と言っています。つまり、しあわせかどうか考えずにいられることが幸せだということです。ジョナサン・ハイトが書いた『しあわせ仮説』には、心理学者ロバート・ディーナーの研究についてこんな風に書かれています。

「彼は、世界中を旅して、人々の生活と人々がその生活にどの程度満足しているかについてインタビューしてまわった。グリーンランドからケニアやカリフォルニアまで、どこに行っても、彼は、大半の人(ホームレスの人たちを除いて)が、自分の生活に対して不満足というよりは満足していることを見出した。彼は貧困のために体を売るしかなく、病気のために将来を奪われたカルカッタのスラム街の娼婦にまでインタビューした。彼女たちは、カルカッタの大学生集団と比較して、実質上満足度が低かったとはいえ、(平均して)生活を12に分けた各側面において、自分の生活は不満足というよりは満足であるか、中間である(満足でも不満足でもない)と評価した。そう、西洋にいる私たちから見ると彼女たちは耐えがたい貧困に苦しんでいるように見えるが、彼女たちも長時間一緒に過ごす親しい友人を持ち、大半の人は家族との接触を保っている。(中略)若き仏陀が憐れんだ四肢麻痺の人や、老人、その他の階級の人々と同様に、この娼婦たちの生活も、内側から見れば、外側から見るよりははるかに良いものなのである」。

人間の“しあわせ”が忘れると得られるものなら、催眠技術で人を“しあわせ”にすることはとても簡単だと分かります。