西田幾多郎の「純粋経験」

日本の偉大な哲学者である西田幾多郎の哲学観の中の基本の部分に「純粋経験」という概念があります。

櫻井歓の『西田幾多郎』では以下のように純粋経験を三つの意識の状態に分解しています。

「第一に、『例えば、色を見、音を聞く刹那』と言われるような判断以前の直接的な意識の状態である。第二に、芸術家や宗教家の『知的直観』といわれるものや、熟達した技能を演じる際の高度に統一された意識の状態である。そして第三に、新生児の場合のような子どもの発達初期の自他未分化な意識の状態もまた純粋経験とされている」

第一の分類は同書の別の部分で、「ハッとするような刹那の状態」と書かれているので、スピードの遅い意識に対して、無意識だけが機能している状態のことと考えられます。たとえば、自動車の運転中に「危険だと思ったからブレーキを踏んだ」というのは嘘で、実際には「ハッ」とした瞬間にブレーキを踏んでいて、「危険だ」と思うのは後のことです。そうした無意識の働きのみの状態のことのようです。

第二の分類はほぼフローやゾーンと考えてよいでしょう。吉田かずお先生も子供はいつも変性意識状態と考えるべきと言っていますが、その子供の中でも自他未分化の状態の意識なら、思考や判断の枠さえできていない状態と考えられますから、間違いなく変性意識状態と考えてよいでしょう。

このように考えると、偉大な哲人西田幾多郎の説く純粋経験は、催眠技術でいう所の変性意識状態とほぼ一致します。櫻井はこれら三つの分類に共通するのは主観と客観が別れていない状態であり、西田幾多郎の「経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である」という言葉を引いて説明した後…

「『私』という意識が生じるには、そのもとになる経験がある。『私』の意識は、純粋経験に主観と客観の区切りを入れて純粋経験から分かれてきたものだと考えられる。その意味では純粋経験とは『私』がそこから生れ出てくる源になるものだといえる」と言っています。

催眠状態にある時、人は自他の区切りが無くなる体験をします。フローにあるダンサーは場と溶け合い、茶道の達人は道具も茶室も自分と一体となると言います。催眠施術を行なうと、催眠術師は対象者と同調して対象者の催眠の深さなどが直感的に理解できるようになります。

主客未分化の無意識が「私」の源。とても意味深い指摘だと感じられます。西田幾多郎が思索を重ねた時代、日本は催眠大国でした。西田哲学の基本にこうした考え方ができた背景に、日本と言う国のその時代があったように思えます。

☆参考書籍:『今を生きる思想 西田幾多郎 分断された世界を乗り越える