禅の思想と催眠技術

禅は日本文化に多大な影響を与えていて、座禅の修行などを誰しもがすぐ思い浮かべることでしょう。しかし、禅とは何かをきちんと把握している人はあまりいないものと思います。

禅を英語で説明することで海外に日本文化・日本思想としての禅を広めた鈴木大拙に拠れば、「禅修行の本質は悟りを獲得することにある」となっています。ただその悟りの獲得は何かのテキストで学び、その方法論を実践すれば(まるで資格の取得か何かの様に)できるというものではありません。「不立文字」と言われ、文字で書かれた教えでは解釈がいかようにも生まれてしまうので、文字によって表現できるものではなく、修行者自らの中から悟りが生まれるものとされています。

禅の修行方法のことを「方便」と呼びますが、鈴木大拙は多くの著書において無数にある方便の中で、「公案」を重視しています。禅匠(禅の師匠)が修行者に問いを与え問答の中で修行者が悟りに至るように導く手法です。しかしそのような手法は禅匠がいなくてはできませんし、問答ですぐさま悟りが約束されている訳でもなく、悟りに至れない者はどうしても、経典を学び思考し解釈して議論を重ねるようになってしまいます。

もう一つの主要な方法は「只管打坐(しかんたざ)」と言われ、只管に座禅をすることです。日本の禅宗の修行ではこちらの方が広く知られており、冒頭にも書いたように、禅宗と言えば座禅の修行を思い浮かべることが多いでしょう。意識を捨てて無意識に集中し、今坐禅している自分自身の認識でさえ忘れるほどに没頭することで悟りに至ることが容易になるとされています。

このような「没頭」は日常の作業においても可能で、「行(ぎょう)」と呼ばれています。特に禅匠の指導の下のこうした「行」を鈴木大拙は「直接的方法」や「行動による方法」と呼び、公案と並ぶ悟りに至る方法として位置づけています。

日本の伝統的な武芸の「道(どう)」の修行ではこうした「没頭」のプロセスが多く組み入れられています。没頭は言うまでもなく変性意識状態そのもので、没頭そのものが自己催眠と見做すことができます。

日本における禅宗の本格的な興りは鎌倉時代のこととされています。日本ではその頃から意識の中の思考や感情の世界を超えた、無意識深くの中の広く深い認知についての理解が存在し、それが一般庶民の日常にまで深く根ざすようになったことがわかるのです。

☆参考書籍:『』 鈴木大拙著 工藤澄子訳
☆参考書籍:『新 禅と日本文化』 鈴木大拙著 岩本明美訳