古代中国の故事を暗示として書き込む催眠

中国の荘氏の考え方の核と言われる『渾沌、七竅(きょう)に死す』と言う話があります。中央の帝である渾沌には目鼻耳口の7つの穴がありません。南海の帝の儵(しゅく)と北海の帝を忽(こつ)は、渾沌を訪ねたところ、厚い歓待を受けました。二人がお礼に寝ている渾沌の顔に7つの穴を開け、人間らしい顔を作ると、渾沌は死んでしまいました。

この二人の帝の名前の儵と忽には“はやい”・“すぐ”が原義にあり、人間を象徴しています。一方、無秩序を示す渾沌は、人智や人為が及ばないものごとの本来の状態です。その渾沌に、見聞きし、食し、息をする人間の営みを教えたら、死んでしまったという寓話です。ものごとは、いつも曖昧にしておくことが良いという有名な教訓です。

昭和中期の高名な催眠術師、守部昭夫の直弟子である吉峯幸太郎氏の書籍『催眠のすすめ』を先日読んでみました。数々の誘導法を写真や図解で紹介する一般的なテキストとは全く異なる、著者の実体験をベースにした催眠に関する考え方が丁寧に記述されています。

吉峯氏は、物事にこだわりすぎる性癖の被験者への催眠施術で、渾沌の話を後催眠暗示に用いることがあるようです。詳細は書かれていないので分かりませんが、変性意識状態の被験者に、複雑な話を聞かせても理解されないと思われますし、場合によっては、変性意識が解除されてしまうこともあるでしょう。

多分、覚醒状態のうちに渾沌の話を十分理解させてから、催眠状態にして後催眠暗示として書き込むのだと思います。

暗示文は、分かりやすくシンプルな内容にして、対象者に受け入れられやすくするのが常識的です。しかし、『催眠のすすめ』には人生の教訓や格言などを直接的に暗示として用いる技法が多数紹介されていました。催眠技術の方法論の多様さがとても実感できる書籍でした。