幸田露伴の説く「努力」の本質

努力を軽視する風潮が目立つようになったと感じます。ただ学びも努力もせずに色々な物事に向かえば失敗の確率は非常に高まります。おまけに、自己責任論が深く浸透していて、自分の失敗を認めるとすべて自分の責任になるので、失敗の原因を自分以外に求めたくなります。そんな人物が努力して上手く行っている他者を見ても、自分には努力する発想もないので、裏で努力をしているなどと思い至りません。単に「運がいい」とスピ系に走り、「親に恵まれている」と遺伝に走り、「何か裏があるに違いない」と陰謀論に走って、他者の成功を片付けることになるでしょう。

明治の文豪の幸田露伴には、『努力論』と言う大著があります。その中で彼は努力を「直接の努力」と「間接の努力」に大別しています。「間接の努力」の方は、日々研鑽するとか、日々精進するニュアンスで、明確な目標やゴールがない日常的努力です。「直接の努力」は“結果”を生み出すべくする努力と説明されています。『努力論』で幸田露伴は…

「努力はいいことです。でも、「これから努力しよう」とするのは、人としてはまだ不完全。というのも、自分の中に、「努力しなくていいのではないか」という感情がどこかにあり、それを鉄の鞭で威圧しながら、強制的に自分を努力に向かわせているような雰囲気があるからです。ですから皆さんには、「努力している」、あるいは「努力しようとしている」ということを忘れてしまい、「気づいたら自分がやっていることが、いつのまにか努力になっている」という状態になってほしいのです。それこそが努力の神髄であり、醍醐味でしょう」

と言っていて、「間接の努力」の方に価値を見出しています。努力が苦労を伴うものとして認識されていれば、努力は未来の不確かな幸福のために、今を犠牲にする行為になってしまいます。幸田露伴が説くのは、寧ろ、ただ努力そのものが善であり快であるという考え方です。

学ぶことや努力することは、多くの場合、集中や没頭を必要とします。それは、フローの自己催眠状態で、人間に充足感という最大の快を与える行為です。

無闇やたらの努力ではなく、適切な方法や考え方を学びながら努力すれば、結果的に成功の確率は上がることでしょう。学びというインプットから望ましいアウトプットが出るようにする努力。それを無意識を使って実現することが、実は人間に持続的な快をもたらす最善の方法と『努力論』を読むと考え至るのです。

☆参考書籍:『努力論